LVMH(モエ・ヘネシー ルイ・ヴィトン)のアルノーは、LVMH(モエ・ヘネシー ルイ・ヴィトン)の企業理理念に「創造への情熱」をあげています。また、アルノー自身の自伝のタイトルにも、「創造への情熱」とつけています。
アルノーも、すでに60歳を超えています。これまでの情熱や冷静さを保つことも大切ですが、後継者へのスムーズな交代のタイミングがアルノーの最大の難関ではないでしょうか。
「タイムレスとモダンの両立」
これはLVMH(モエ・ヘネシー ルイ・ヴィトン)の理念にもあたります。各傘下のブランドのデザイナーの交代を見事に演出してきましたが、今後は、自らグループ総師の後退を成功に実現できるかが最大の課題になってきます。
LVMH(モエ・ヘネシー ルイ・ヴィトン)のアルノーは、色々な場面での文化的な取り組みが評価されて、国家功労勲章のシュバリエを受勲しています。アルノー自身、ピアノを弾きこなせるので、チャリティーコンサートなども行っています。こういった活動は、高級ブランドと芸術を結びつけLVMH(モエ・ヘネシー ルイ・ヴィトン)のブランド価値を高めます。そして、製品の質の向上にも繋がっていくと考えているようです。さらには、環境問題への取り組みもいち早く行っています。
利潤追求という側面ばかりではなく、芸術などといった社外にも活動範囲を広げていき、LVMH(モエ・ヘネシー ルイ・ヴィトン)と傘下のブランドを発展させていくという経営スタンスがアルノーのセンスならではなのかもしれません。
LVMH(モエ・ヘネシー ルイ・ヴィトン)のアルノーは、個人としても組織としても、メセナ活動にとても力を入れています。パリのパレ・ロワイヤルの庭園の修復事業に取り組んだり、セザンヌやピカソ、ゴッホなどの絵画展に協賛するといった活動に取り組んでいます。
日本との関わりがあるものでいえば、歌舞伎座の公演です。LVMH(モエ・ヘネシー ルイ・ヴィトン)は、歌舞伎のパリ公演のスポンサーになっています。
他には、アルノー自身、村上隆のファンで、フィギアのコレクターだそうです。これは、ルイヴィトンとのコラボレーションが実現する前からだったそうです。パリ、モンテニュー大通りのLVMH(モエ・ヘネシー ルイ・ヴィトン)の本社の入り口には、大型フギアが2つが左右になって飾られています。
さらにロボカップ世界大会にも携わっています。これは未来にむかっていくブランドという意味合いも込められているようです。
LVMH(モエ・ヘネシー ルイ・ヴィトン)のアルノーは、来日の際、タイトスケジュールを縫って、参考になるお店をあちこちと巡ります。大手デパートの店舗を中心に見てまわるそうです。
あの店はどーだった。あそこの店はこーだった。
と克明に覚えているそうです。
そして、経営者に求められる決断力。アルノーはこの決断がとても早いそうです。関係者の話によると、アルノーあは何でも即決だそうです。稟議などはなく、早ければ電話一本で決めてしまうそうです。前向きな決断が優れているのはもちろんなこと、後ろ向きな決断、引き際の決断にも能力を発揮します。
例にあげると、化粧品販売会社のセフォラです。セフォラは日本に進出してから撤退の決断が下るまで、たったの2年でした。そこから1年間かけて撤退しました。たったの3年間で跡形もなくなりました。
LVMH(モエ・ヘネシー ルイ・ヴィトン)のトップであるアルノーは、これまで行ってきた行動が要因となり様々な呼び名があります。
冷静な情熱家
指先にフレアがある(炎や太陽の表面の巨大な炎)
などと呼ばれたりします。とはいうものの、外見は全く違い、とてもおだやかです。アルノーは数千億円を動かしてグッチを買収しましたが、そのほんの数時間後に、アルノーにあった関係者がいつものように元気よく話しかけられたそうです。大きな仕事を、数千億もの仕事を成し遂げてきたという興奮のかけらなんて見当たらなかったようです。
LVMH(モエ・ヘネシー ルイ・ヴィトン)は、独自のビジネスモデル、経営手法を確立しています。これまでのさまざまな戦略や戦術、ビジネスプラントいったことは、企業家アルノーがあってこそという声は少なくありません。万が一アルノーがいなくなってしまったら。そう考えるとベルナール・アルノー自身がLVMH(モエ・ヘネシー ルイ・ヴィトン)の一本の柱となっており最大の強みとなっています。
「当社では、もしアルノーに不足の事態が起こっても、彼を引き継ぐことのできる強力な組織体制を作っているし、特別な後継計画もある。しかしそれには振れたくない。」
とLVMH(モエ・ヘネシー ルイ・ヴィトン)パリ本社の広報担当が述べたそうです(「リチャード・へラー ブランド帝国 拡大に邁進するベルナール・アルノーの勝算」「フォーブス」2001年3月号)
ファッションの売上は、絶対額にすれば大したことありません。しかしこれが起爆剤となり、顧客がブランドの見直しを始めるという循環が起こります。その流れで定番品の「モノグラム」までものが再度売れ始めたのです。
このように大きな方向付けを狙ったのは、アルノーです。各ブランドのトップ人事、デザイナーの交代、そしてブランドの方向付け。これがアルノーの腕の見せ所といっても過言ではないでしょう。
ルイヴィトンのファッション化には、古い顧客からの反発も予想されていました。そこにはリスクも見えていました。しかしそれを乗り越えたルイヴィトン。これもアルノーの決断が必須でした。
一般的に、ラグジュアリーブランドのプレタポルテでのコレクションでは、シーズンのモチーフやテーマが呼び物となります。ルイヴィトンの場合、ファッションと合わせるバッグにも注目が集まるようになりました。
「モノグラム」
「ダミエ」
「タイガ」
などとといった従来の定番商品を販売する一方で、マーク・ジェイコブスによる、新定番や限定品を上手く押し出すことによって売り場は一気に活気付いていったのでした。
ルイヴィトンがファッション化した最初、マーク・ジェイコブスのデザインはモード化していて顧客には受け入れられませんでした。
モード界の世界でいうと、ショーが失敗に終わった時点で即解雇でもおかしくはありません。
しかし、当時のルイヴィトンの社長となっていたイヴ・カルセルが続投を決めました。なんと結果を出すまでに3年間の猶予を与えたのです。ショーを1回失敗したからといって、ルイ・ヴィトンはビクともしない。とLVMH(モエ・ヘネシー ルイ・ヴィトン)の豊富な資金力などの広大さがわかるようなできごとでした。
コレクション自体は失費しましたが、その後、マークの発案によるカラフルなエナメルのバッグのライン「ヴェルニ」が店頭に登場すると、瞬く間にヒットしたのです。さらに、湾シーズン限定で販売する新アイテムを登場させ、こげ茶の地味なブランドのイメージであったルイヴィトンが、たちまちカラフルなモードブランド一転していったのでした。